「グランドデザイン」という言葉があります。大きな設計を意味するでしょう。国家的な大事業(ナショナルプロジェクト)の、遷都計画、大港湾、大運河、ハブ空港、新幹線や高速道路網、海上や海底トンネルなどの建設事業が、思い当たります。
これらの、巨大インフラストラクチャー(社会的基盤整備)が、私達の日常生活に知らず知らずのうちに、恩恵をもたらしている、ということも事実でしょう。が、それ程の巨大設備が無ければ無いなりの、生活方法も有り得たと考えられます。
むしろ私が着眼するのは、重厚長大の社会資本のもたらす社会的果実の規模を、かなり上回る社会的あるいは自然的弊害の可能性です。「千年の都」とされた巨大な都市計画による、大規模の都市基盤整備や壮大な建築物群が、数十年後には政変や戦乱で、壊滅した事例は世界の歴史上、枚挙に暇のないところでしょう。
古代ローマ帝国の都ローマや中国唐代の都長安などは、比較的「長寿」な部類に属するのではないでしょうか。長安を模した日本の平城京(奈良)は70数年で、長岡京への遷都によって都としての機能は消滅し、中心部は現在農地にすらなっています。平安京(京都)は約400年続き、その後も室町時代に都の地位を回復し、現代に至るまで「古都」として存続してはいます。が、条里の碁盤の目のような都大路も左京(西側)に限っては、湿地帯のため建設直後に廃れてしまっています。
ナチスドイツの第三帝国の都ベルリンの建物群も、1936年のベルリンオリンピックから10年足らずの1945年までに、多くが瓦礫の山と化しています。重厚長大を指向する政治とは、かくもはかなく不安定な存在なのです。
民生安定を主眼とすべき政治が、「たましき都のうちに、甍を争える」人々によって担われるはずは無いのです。政治が儚いのではなくて、たやすく暴走する政権が短命に終わるべき、必然性や装置が、当初から具備され、内在しているのでしょう。
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