ごつごつした原石から大胆に彫り上げたような文章は、心に染み渡るものです。作家で随筆家の坂口安吾(1906~55)の文章を読みました。題して『もう軍備はいらない』で、雑誌『文学界』の1952年10月号で発表したものです。他作家からの受け売りや、古典文学の模倣ではなく、現実世界と直結した文章の力強さがびしっと響きます。
敗色近いの東京で、空爆の中やその後の街中をさまよい、その際に遭遇した夥しい遺体や、自分自身を含む生存者の虚脱感による無感動ぶりが、まず提示されます。実体験に基づいて、独自の視点から戦争を直線的にこき下ろします。戦災犠牲者とそれを傍観する者とを類別して、その被害の究極の姿を、突き放したような簡潔さで、あっさりと描写しています。焼夷弾の落ちる様子は、不気味な生々しさです。
「・・・、そこまで正直にさせないと気がすまないような」とか、「・・・、人を殺すという良心ーー」などの、逆説的な表現で、「戦争という飛んでもないデカダン野郎」の本質に肉薄しています。
坂口安吾の文化論に基づく、「泥棒がどうすることもできないような財産」である、確固たる文化、といった比喩を交えた手法にかかっては、戦争を始める大義など、そもそも立錐の余地もありません。ここには、安吾の代表作『日本文化私観』が、変奏曲的に、強靭な反戦思想として、反軍備思想として結実しています。
仮想敵国を大義名分として「再軍備」に走る政治家に対しても、下世話な例えで、その愚昧振りを痛快に排撃して止みません。すでに《再軍備が十二分に行き渡った》現代の我々日本人にとっても、再軍備の出発点で、再軍備の原点でその非を縦横無尽に指摘した安吾の卓見は、多くの考えるヒントを我々に与えるものであり、歴史上光芒を放つものです。
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