昨日の憲法学の泰斗奥平康弘氏の講演では、氏自身が様々な憲法裁判の判決文を通読する中で、裁判官の個人的な特性、さらには私的な生い立ちや人生経験についてまで関心というよりも興味を注がれている様子が、言葉の端々に伺われました。
碩学といえども、「憲法の窮極にあるもの」とは、知性や理性ではなく、それは手段であり、精神構造、更に突き詰めれば心的傾向であるようです。この言葉は、奥平氏ご自身についても、披瀝されていたようです。
今回の講演で得たものの一つは、私がすでに通読している奥平氏の著書について、氏が今回の講演で感情的に強調した語句の意味合いを、再読して確認する事が出来る事です。
更にもう一つ得たものを例示しますと、私が党員の一人である、自由民主党の憲法改正草案についての、少なくとも一時期の価値判断です。奥平氏の政治的スタンスが自民党からかなり遠ざかっている、というよりも正反対なだけに、相当辛らつな批判が展開されるかと予想しましたが、意外な発見でもありました。
講演中に「ところで」との話題転換の後、次の論評は面白く拝聴しました。すなわち、自民党は結党以来「憲法改正」を掲げており、特に1990年代からその調子を上げている。全面改正とはいっても、中心は9条の「改正」だが、全面改正なので81条(違憲審査)も対象となる。(ここでニコっと微笑して)自民党案にも、ヨーロッパ型の81条改正案があった時もあった、と述懐していました。
自民党が、ドイツを代表とするヨーロッパ流の「憲法裁判所」の設置規定を憲法の条文に取り入れ、「抽象的違憲審査制」を指向したことについて、「我が意を得たり」として、一定の評価をしているようです。
すなわち政治があるいは政党が、司法権の優位につながり得る憲法改正を指向したことに対する、積極的な評価です。それは、「内閣法制局の国会からの排除」を制度として立法化を目指し、違憲の確認を国会から排除し、水島朝穂氏が指摘する「歪んだ政治主導」を画策する、日本の現政権内の巨大勢力への、牽制の気持ちも含まれているのかとも思いました。
コメント