明確な反戦の意思が制作者側に無い戦争映画は、結果的に好戦映画となってしまうようです。部分的に戦争の悲惨さを描いてさえもです。
映画制作の関係者達が、戦意高揚とまでいかなくても、鑑賞者にとって、登場する勇敢な将兵がカッコいいと思ったり、兵器の装置の機械的な動きだけでも、躍動感があれば、ゲーム感覚で高みの見物として「戦争ごっこ」あるいは「カッコいい戦争の疑似体験」を堪能することが出来てしまいます。
文学等の芸術作品と違って、映画に大衆娯楽的な要素が多分に含まれるだけに、その社会的影響は、功罪共に大きくなります。反戦か好戦かであり、あいまいな場合は、すべて好戦と見做して差し支えないでしょう。
核兵器の保有や、核武装についても、同様な線引きが出来るのではないかと考えます。明確な「反核」の意思がなければ、いずれは核兵器の保有は、なし崩し的にか、何らかの動機付け的な事件をきっかけに最初は、臨時あるいは暫定的に、そしてやがては恒久的に導入されるでしょう。
核兵器の抑止力を容認すれば、いずれはそれが実際に使用され、報復攻撃の連鎖で、人類の全体か、相当の部分が死に至るでしょう。
私個人としては、大陸間弾道弾などの戦略核が配備されてから半世紀で、使用されずにここまで人類が無事であったのが、僥倖としか思われない位です。反戦思想や反戦活動ければ、既に何億といった単位の人類の命が失われていたであろうと考えます。