古代中国の後漢から三国の魏、そして晋の時代にかけて、『清談』といった、現実社会を逃避した有閑階級の文化人たちによる政治理想論があったかと思います。高校の歴史教科書的表現では、「世俗を離れた老荘思想的な議論の流行」といったことろでしょう。
私のような実際政治に関与し、日々〈苦心惨憺苦悩悶絶〉する立場からは、『清談』のような、ごく一部の特権的、閉鎖的な人々の政治思想現象については、「社会的な義務意識の欠如」をまず糾弾してから、取り掛かってしまうようです。
しかし、日頃「下達」(低次元)への道を志向す嫌いのある、現実政治、リアル・ポリティックを常々目の当りに見ている私にとっては、たとえ政治理念闘争が神学論争化したとしても、「高尚」な気運というものは、尊重すべきものでもあり、眩しさも感じるところです。
「入間市議会は今後どうあるべきか」といった、書生論的な提言が発せられるのは、私にとって「此れあるかな」といった感慨でもあります。形而上学的な政治論争が、入間市議会で十分に展開されるのは、この「非常時」であっても、並行して実施されても、当初私自身が危惧した程の弊害は無いようです。
むしろ、「非常時」であればこそ、パラダイム(従来支配的な見方)を変革しなければならない、切実な時期に、入間市議会も突入していると判断します。市議の中にも無意識的にでもその歴史的使命の役割を演じ始める方々もおられるようです。
市民側から「市議会無用論」が出てくれば、特定の利益追求や党派的な思惑から距離を置いた「公論」の必要性も増すわけです。これは、存外議員個々の自己啓発にも結びつくでしょう。
その収束として、地道な努力の積み重ねこそが、市議会の健全化や活性化への「王道」である事を、議員各位が自覚し、悟ることになるものと考えています。
もっとも、表向きは高遠な理想を掲げても、た易く派利派略や人事的な優遇を謀る「世俗的打算」へと転落しないことを望むところです。
「王道」は「覇道」に勝るものです。対立する相手側の論理(言い分)も包含するだけの幅広い教養も必要となるでしょう。
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