かつて20世紀半過ぎ、原水爆の米ソ双方の軍事的配備態勢が確立した当時、核戦争による人類の滅亡を主題とした、小説や映画が多く制作されました。アメリカ映画の『渚にて』(1959年)や『博士の異常な愛情』(1963年)などがその筆頭でしょう。
1970年前後に、その作品群を主にテレビ放映を通して鑑賞する機会の多い時代がありました。 その時期に、中学生や高校生時代を迎えた私は、「核政争即人類滅亡」が頭に強烈にインプットされました。 そんな私にとって、自分自身が中年となる21世紀まで、果たして人類が存続し得るのかは、不確かなものですらありました。
幸いに、2015年の11月2日までは、政治・宗教紛争によって、多くの有為な若者の命を失いつつも、人類全体の破滅は何とか回避されています。 かつて程、深刻な奴隷的苦役や搾取は消滅しつつあり、貧困の度合いも、かつてほどではないでしょう。
日本で社会問題・政治問題となっているのは、経済的格差の問題であって、絶対的な貧困は少ないでしょう。 勿論、相対的な貧困が絶対的な貧困へと転化しないように、政治家は注意すべきですが。
政治が、国家間あるいは国家内の利害関関係の調節に機能を果たしてきたのは、古代以来のメカニズムであり、特に真新しいものではありません。 が、最近とみに政治の劣化が進んでいるのは、否定出来ず、おおよそ広義の政治家の範疇の末席を汚す、私にも責任の一端がありましょう。
持たざる人々・生活困窮者が、生活や生存、あるいは存続の危険を察知して行動するのは、倫理的にも「合法的」ですが、その根本原因は、「足るを知らずに」物質欲を当然の如く政治に要求する一部の国民にある、と私は考えます。
また政治家が、権力欲・領土的野心から脱却出来ない傾向も問題です。 そもそも、今述べた性癖のある者達によって成り立つ政治が、今後人類にどのような災厄をもたらすのか、不安は尽きず、大いに憂えています。
政治家とは、国民・県民・市民の模範を示すべきですが、政治や選挙のメカニズムとは、必ずしもそのような行動を促進する機能を果たすものでは無いのです。
より欲望を満たしたい人々によって、政治は左右されている傾向は、昔も今も変わらず、おぞましい程の政治処世術だけれが、政治家に要求される歴史的教養とは全く身関係に、脈絡無く異形の発達を遂げています。
革新系の政治家には元から実践している方もあるでしょうが。せめて保守政治家側の一部だけでも、「足るを知る」といった行動のモデルの生活を提示し、あるいは自覚し、例外的な「変わり者」として揶揄されるのも辛抱し、やせ我慢をすべきでしょう。
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