2012年制作で実質的にドイツ映画の『ハンナ・アーレント』を、インターネットのオンデマンド配信で鑑賞しました。 ナチスのユダヤ人に対するホロコーストの鍵を握る人物アイヒマンは、ニュールンベルグ裁判よりもかなり後に、南米でサマドに捕獲され、イスラエルの法廷で、死刑を宣告されます。
この裁判でのアイヒマンの「証言」や弁明や挙措を傍聴した、ユダヤ人女性の哲学者ハンナ・アーレントが、感性からの素朴な観察から、アイヒマンの悪の「凡庸さ」に気づき、その「悪の陳腐さ」の本質を追求する内容です。 実存主義の大家で、ハンナにとって師であり、後のナチス協力者、マルティン・ハイデッガーとの関わり。 彼女自身の、ユダヤ人の指導者側にも、ホロコースと協力者も存在したとの指摘もあります。 特に後者は、世上の批判、特に同族のユダヤ人達から、多くの強烈な非難を受ける結果になります。
600万人もの無辜の民を虐殺した「悪」は、どの角度からも「絶対悪」以外の何物でもない、とする一般常識への挑戦と、とらえられて当然のようでもあります。
しかし、ここで私は、日本の哲学者、西田幾多郎の「絶対悪」否定説を想起しました。 すなわち、「悪とは、そもそも偏波なものであり、「絶対」などといった立派な修飾語で飾るに相応しくない」といった学説です。単純化すれば、「悪とは、そもそも陳腐な存在」、といった所です。
ハンナ・アーレントは、これを知らなかったと思われます。 知ってたならば、別の展開もあったでしょう。
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