科学、特に自然科学系の学問は、世の人々の素朴な常識とはかけ離れた『真理』・『真実』を提示する場合もあるでしょう。 但し、それが他の事象を度外視して閑却して、あたかも全体的な価値として主張された場合は、どうなるでしょうか。
『しんぶん赤旗日曜版』の記事に、気象学者増田善信氏の論述がありました。
増田氏は、かつて日本学術会議の会員です。お若い頃、知らず知らずに軍に関わり、その後気象を扱う海軍少尉として『特攻隊』の兵に、出撃直前に、航路や目的地の気象状況を伝える任務を担ったようです。
その時代の逸話として次の様な内容がありました。
飛行航路が晴天として出撃した特攻兵が、「前方に積乱雲あり」として帰還しました。 増田氏は飛行長から、気象予報の誤りを叱責されます。 氏は、資料をもって反論に出向きます。その時の飛行長は資料も見ずに、「もうよい」の一言だけだったそうです。
「意在言外」の文章を私なりに解釈します。既に増田氏の論述でも明かされている一部を含みますが、飛行長は、分かっているのです。 航路に積乱雲は無く、特攻兵が恐怖のため帰還した事をです。 気象担当者に責任を負わせる事で、特攻隊員が自決(自殺)するのを防止したのです。
増田氏は、「飛行長の思いもわかろうとはせず、自らの科学的な正しさをことさら示す態度をとったことに、恥ずかしく申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。」と述べています。私が「これは!」と思う程、含蓄の深い教訓です。
増田氏は、学問に軍事が介入する事態に、かつての反省を込めて、反対を貫いています。この逸話も、このような悲惨さを招いたのは、「科学者を軍事研究に動員」したためでである、といった全体的な文意があります。
それと同時に、学者が自らの正しさをことさら示す態度にも、人生の逸話での自戒を披歴しながら、警告しているのでは、と愚考します。
誠意のある人が、信念・信条を「一以て貫く」(出典は論語)場合、ともすれば機械的な論述に陥るといった残念な結果になりがちです。が、不条理な現実社会、特に「特攻隊」といったその不条理の極みを、経験した実体験が、多重的な深い意義を具備した共感を呼ぶものです。