地方自治の末端に連なる者として私宮岡治郎は、事ある毎に繁田武平氏(1967年~1939年、慶応2年~昭和14年)を想起します。繁田武平氏が現在の私の政治的な立場であったならば、どのような挙措を取られたか、が私の行動規範となっています。
繁田武平氏は、入間郡の旧黒須村(現在の入間市黒須地区)に生まれ、1900年(明治33年)から1926年(大正15年)まで、旧入間郡豊岡町(現在の豊岡地区)の町長を務めています。人格識見はもとより、柔軟性や企画力、実行力などあらゆる能力を兼ね備えています。
埼玉県入間郡豊岡町は、優良な自治体として全国的に名高く、全国各地からの行政視察団も年間に50団体程に上っています。繁田氏自身、全国町村会の成立に参画し、その役員にもなっています。明治以来の藩閥・専制政治に対抗するといった目的を、自由民権運動衰退後に、立憲政治の標語のもとに取り組んだ、といった側面もあったようです。
人脈についても幅広く豊富で、例えば、ご本人が当時の憲政会の支持者でありながら、政友会の粕谷義三衆議院議員とも円滑な交流があり、キリスト教徒の石川幾多郎・和助兄弟とも協力関係にありました。
町長退職後に企画実行した『豊岡大学』は、現在の市民大学公開講座に相当しますが、その講師は多く粕谷氏の人脈に負うものが多く、その会場となった豊岡公会堂は、石川一族の敷地提供や渋沢栄一氏他多くの人々の資金提供で建設されています。政治的な党派根性や宗教的な垣根が無く、円満な人格と豊かな教養もありました。
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