ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバー(1964年~1920年)の、晩年の著作『職業としての政治』は、政治の理想を論じるとともに、生の政治の現状を余すところ無く摘出し、その対応を提示しています。ヴェーバー自身は、アカデミズムにおける近代史上の巨星ですが、同時に政治への洞察力といった、政治学を専攻し政治を専攻しない、象牙の塔の学者には盲点となる分野にまで、『造詣』が深いのです。
私は敢えて括弧書きで、『造詣』という言葉を使わせていただきました。政党の綱領、イデオロギーや宗教といった学問に馴染む分野は、政治生活のごく一部を占めるのみであり、実態政治とは、学問の研究対象となるには余りにも浅はかで、軽率で、無定見なものだからです。もっとも、そうである故に『人間的』であるのも事実でしょう。
ヴェーバーが、「それにもかかわらず」といった意識を有する、結果的に少数の真の政治家に、『天職』としての政治家的使命を期待する事の意味深長さを噛み締めています。与えられた今後4年間の市議会議員としての任期で、いかにして『信義』を重んじた政治を全うするのかが問題です。
予めこの日記の読者の諸氏に明言しておきたい事は、この日記での私の内心の吐露とは別に、外見上正反対の政治行動や政治決定を、私が取る事もあり得るということです。仏教用語である『方便』や、中国古典の史記の『大礼は細謹を省みず、大行は小譲を辞せず』、あるいは『大事の前の小事』を念頭とした政治行動である、とのご推量を請い願いたいのです。
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