実態が伴わずに、外見だけの見せ掛けで事を処理する、あるいはそのように試みるるならば、虚業家と呼ばれても仕方がないでしょう。政治も時として、自分に甘く、他人に厳しいような性格類型や行動類型の政治家によって、永続はしないものの、しばし主導権を取られるもののようです。
現に国政に於いても、具体的な論戦や討論を公の前で殆どせずに、裏方の根回しだけで大きな影響力を持つ「有力政治家」の実例が、21世紀も平年度化して久しい昨今でも、飽きもせずに継続しているようです。
孔子は言行録『論語』の中で、「君子は、自分に対する評価が、実態としての自分を上回るようであったならば、それを恥なければならない」といった主旨を述べています。内実を本位に人物を鑑定する孔子の本領が窺えます。2500年前の中国でも、実質を離れた政治の弊害を、孔子は洞察していたようです。
「虚業としての政治」といった類型化が許されるならば、以下私の自論も展開し易くなるでしょう。すなわち、政治が人情の世界であるならば、人情の本質に反する虚業家が政治の世界に存在する余地は、無いはずなのです。
その虚構の世界、虚栄の構造を速やかに打破するのが、君子やる者の真っ先に実践すべき、責務といえるでしょう。
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