『生きている言葉』といった題名の、1分間程のスポット番組が、20年程前にNHKの総合テレビで放送されていた事がありました。言葉は生き物であり、同時に本来有する意味を離れて、独自の歩みを始めるのが通例のようです。
良い心掛けや行動を賛美する意味があり、それを奨励する趣きのある「奇特」という言葉も、巧妙な利益誘導に満ち溢れた現代の日本社会では、経済的な感覚に疎い「お人好し」として揶揄する場合に用いられるようでもあります。事実、それに関して先日、私自身寂寥の感を禁じ得ない状況に遭遇しました。事のきっかけは以下に述べる通りです。
国の制度として、今年の4月から、ハイブリッド車などの低公害車の購入について、優遇策が始まりました。読者の皆さんは、既にご承知と存じます。補助金と免税と合算すれば、最大で約40万円の実質的な取得額の減額となります。
この政策は、低公害車を取得する者が、同格の「普通車」を取得するよりも、絶対的な得をする制度ではありません。というよりも、同格の乗用車に比較するとかなり割高の「低公害車=環境への負荷の少ない車両」を「敢えて選択する」ユーザーに対して、かなりの割高である較差を、容認できる較差に「縮減」して、低公害車の普及を図り、量産体制による本体価格の低減を誘導する目的があります。当然に昨今の景気対策の一環として、導入されていることは言うまでもありません。
したがって、いくら売筋商品であっても、社会的にあるいはマスコミに注目されても、低公害車が、同格の「普通車」との差額の幅は縮んだとはいえ、割高な金銭を対価として購入することに変わりはないのです。
私宮岡治郎は先日、この点を捉えて、国の政策を「環境に配慮し、損を承知で低公害車を買う『ご奇特』な方々を、優遇する政策」と論評しました。私のこの発言の真意は、文字通りの単純なものです。
ところが、この私の発言を「経済感覚」に乏しい人々を揶揄したもの、と捉える向きもありました。確かに、時代の風潮に乗せられて、環境意識とは別次元で「損な買物」をする方々も想定されます。(その場合でも、長年使用すれば、燃費の利点で得をするといった考え方も成立ちますが。)
ひねった解釈をすれば、「ご奇特な・・・」といった言い回しには、どこか冷笑的な、シニカルな陰影が差し込む余地があり、それを再認識した次第です。「道学者」や「聖人君子」といった言葉も、「使用上の注意」に配慮しながら、用いなければならないものです。それに止まらず、「環境に配慮」する行為それ自体を、「ご奇特な」で括ったことが禍となって、からかいの対象となり得る可能性にまで、懸念は及びます。
かつて、自動車の排気ガス規制が強化された時に、「駆け込み需要」という現象がありました。新たな排ガス規制適合車では、自動車としての走行性能が低下するので、そうなる前に「排ガス規制の洗礼を受けない」従来型の自動車を買っておいて、「末永く使用」することを志向するものでした。
道義や倫理を逆手にとった、このような障害や弊害(モラルハザード)を、私は政治や政策立案にかかわる者として、施策・政策の効果判断の手掛りの要素として、予め熟慮すべきなのでしょう。
コメント