語弊を承知で敢えて申しますと、良い意味での「公私混同」は、政治活動に大いに有効であり、奨励すべきかと考えています。読者の皆さんは、「有効」であるといった現実は、必要悪としては消極的には認めるものの、「奨励」といった積極的な価値判断には眉を顰め、宮岡治郎も、とうとう政治屋に堕したかと思われるでしょう。
私の弁明が許されるならば、以下に述べる通りです。公的な「大義名分」を大前提とした上で、それだけで政治は機能しない事は厳然たる事実であり、人類史上の「真実」である、との確信を私は持ち、あるいは認めざるを得ないのです。
一口に「市民」といっても、それは一団の人々であると同時に、個別の存在なのです。それぞれが、主体性を持ち、場合によっては、あるいは往々にして利害が対立し、主義主張、更に深く探求すれば私的な判断基準が異なります。したがって、個々の市民の説得してご理解をいただくため、あるいは行動していただくために、「公」だけではなく「私」の要素も必要というわけです。
要は、私的な動機付けを梃子に公的な成果を挙げるのが、そもそも政治の妙諦である。といった、構造的には極めて簡単至極な、普遍的な真実です。
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