黒か白か、誰の眼にも明らかな事柄は、政治上の議論の対象とはなりません。黒と白との間の灰色の地帯を見出して、黒あるいは黒に近い、白あるいは白に近いとして、どちらか寄りの一定の決着を、論戦の上で採決し決定するのが、民主主義政治の基本的な手順でしょう。これが、独裁政治となりますと、黒も白となり、白も黒となるようです。中間的な存在が、時にはあやふやですっきりとしなくても、ともかく容認されるのが民主主義である証左でしょう。
では民主主義政治の論争は、概ね合理的といえるのでしょうか。そうとは決して申し上げられないほどに、論理構造は矛盾だらけで、前提からして不毛な例もあります。
例えば、Aという提案があったとします。政治的には部外者から提案されたもので、様々な意味で行政制度として妥当性を欠くことは、全ての政治家の共通認識である場合です。
しかし、諸般の事情でそれを真っ向から否定しにくい状況も有り得ます。何らかの錦の御旗を掲げた内容であったり、政治家の支援母体に近い位置からの提案である場合です。
泥をかぶってもA案を直接対象とし、その問題点を適示して、否定する政治家も無くてはなりません。幸いに、政治家の比較的多数派はこの立場です。これが政治的には本流となります。
ところが、A的な主張を常日頃から唱えており、独りAだけを否定するのは、否定することが論理的には妥当であることは承知しながらも、政治的立場として「得策」で無いと判断し、終始沈黙の上で表決において「消極的」に賛成する政治家もいるでしょう。ここまでは、一般社会でも良くある事です。
以下の2つの例も一般社会でも無いわけではありませんが、民主政治特有の技術というべきでしょうか。相当に手が込んでいて、発言する政治家そのものが自己矛盾に悩むでしょう。
すなわち、①Aという提案をAと類似のA´であるとこじつけて、そうであるから賛成であるという論法です。この場合、既にAといった賛成しにくい提案を離れたA´に論点がすりかえられていますし、A´はA以上に虚構の産物で実現性は皆無であるので、自由自在に何とでも修飾できる利点があります。
また、②厳密にはAに含まれないaという制度を殊更誇大に取り上げ、あたかもAそのものであるかのように取り繕って、それが政治家の背後のグループの手柄であると宣伝した上で、そうであるからAという提案は無用である、といった主張です。すでに現存する制度ですので説得力はありますが、本来別のものを、本体の全てであるかの用に論ずるは、二重あるいは二段構えの虚妄であり、相当に骨が折れることでしょう。
民主主義政治とはいっても、政治にはある種のまやかしは不可避であるのでは無いか、と私は考えています。私自身は、Aに直接反対する道を選びます。沈黙の賛成者も、A´賛成者も、a功労宣伝の反対者も、直接反対者があって、初めて存在の余地が生まれるのです。
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