「着眼大局、着手小局」をモットーに、議員活動を継続してきました、振り返れば1997年の元旦に市議選に出馬宣言して以来12年半、かなりの道程となります。ところが、事ここに至って、私の政治的な大きな錯誤を認めざるを得ない局面に差し掛かりました。私の政治は、最近30歳代前半で市長に就任するような、若くして頭角を現す方々に比べ、資質の面だけではなく、政治そのもの理解でも、かなり遅れているようです。
すなわち、法律や条令、規則等を、「着眼大局」の範疇に有るものとして把握して来たために、政治の持つ力を自ら貶めて来た様なのです。法的な整合性は勿論大切です。取り分け最高法規である憲法は、不磨の大典であるばかりではなく、我々市民の生活に必要な、「基本的人権」、「主権在民」、そして「戦争放棄」といった大前提を示します。
しかし私は、憲法はともかく、常に法的な整合性に拘泥する、といった愚かな政治姿勢に終始する傾向があったのです。そして、現行法と現実政治を比較対比する場合、現実政治を現行法に近づけようと試みてきました。
現実政治と現行法は、どこかで食い違うのがむしろ常態でしょう。別に居直って、政治家が違法行為や脱皮行為をしても差し支えない、と申し上げる積もりもありません。
本日ある事例で、私が今まで、法的な整合性の観点から、最初から実現不可能と思われた、地域的な課題が、実現に向けて動き出したことが確認されました。
具体的に申しますと、仏子駅のエレベーター設置は、「交通バリアフリー法」やそれを継承する「交通バリアフリー新法」の規定では、「義務規定」どころか「努力目標」にすら該当しない、といった「客観的」・「法的」事実関係に縛られて、議会活動を全く行って来ませんでした。
かつて、同僚議員が多くの署名を背景に、この課題を質したところ、市執行部から、「バリアフリー法に照らして、該当しない」として退けられたのを、議席で傍聴したことがありました。
しかし、政治とは私にとって意外な側面があるものです。法律では「義務」どころか「努力目標」ですら該当しない事例ですら、大局的な合理性から執行される現実政治では、市は勿論、国が補助を、鉄道事業者が負担をする可能性もある、ということです。
こういった、「超法規的政治決断」も有りうることを、私が予め知っていたならば、私の議員活動もバラエティーに富んだものとなっていたのではないか、と思いました。あまり法的な整合性にこだわる余り、政治の躍動的な意味や、弾力性、柔軟性に気付かずに過ごして来たのです。
一回一回の政治行動では、わずかな損失であっても、12年半と継続しますと、損失は相当のものであったのかも知れません。政治は、法的な不整合性や様々な問題点や反対意見があっても、大局的な見地から、判断すべき「ヤマ」もある、という事です。
これを超えなくては、世の人々に必要な政治は不在となって、知らず知らず人々を不幸にしてしまうでしょう。
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