中国古代の思想家で儒教の祖孔子。その言行録『論語』は、孫弟子達が編纂したものとされています。したがって、孔子の肉声や謦咳に触れた者も若干いたとしても、多くは孔子の直弟子の記憶を頼りに、複数の異なった取材から、その共通項だけを信憑性のある部分として、再現し編纂したものと思われます。
日本人の中で、漢籍への造詣で群を抜く作家中島敦は、小説『弟子』の冒頭に近い部分で、「後世に残された語録の字面などからは到底想像も出来ぬ・極めて説得的な弁舌を孔子は有(も)っていた。・・・」、と叙述しています。そうであるなら、語録の『論語』は、孔子の弁舌から見れば、いわば備忘録の位置に止まる、ということになるでしょう。
孔子は、決して「巧言令色」にまで逸脱しないにしても、口舌の徒で、饒舌の徒でさえあったかも知れません。が、そうであっても、例えば『論語』 巻第一 為政第二の十 「子曰く、其の以うる所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人いずくんぞかくさんや。」は、孔子の人物鑑定眼の精髄といえるでしょう。
その人物の現在を「視」、過去を「観」、未来を「察」といった三点セットで、其の人物の本当の姿が分かるという、理に適った方法論です。日本語では同様に「みる」と発音する漢字の表現力の豊かさと、奥深さを感じます。
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