仏教用語に「冥利」という言葉があります。広辞苑では、「善業の報いとして得た利益」とあります。しかし、例えば「役者冥利に尽きる」と言った場合、単にギャラの多い仕事が入った、といった意味以上のもの、たとえば自分の芸の奥義までも正しく理解してくれる客がいた場合などにも用いられるでしょう。通常の利害得失を超えた部分に意義を見出すような、形而上学的な範疇の利益を指すものと思われます。
かつて1980年代であったと思います。アメリカの一大自動車生産企業ゼネラルモーターズ(GM)が、日本の得意とする小型車の分野に本格的に参入する、といった「大ニュース」が流れました。GM程の経営規模と販売網、企画力と開発費など全ての観点を勘案すれば、他の追随を許さない巨大企業によって、世界中の自動車生産企業の半分は淘汰され消滅してしまうであろう、との報道がなされました。
今にして思えば、「張子の虎」を恐れるといった類の危惧でした。軍事力を背景としたアメリカの文明に対する畏怖や、殊更大きなもの、力のあるものに媚び諂うような「事大主義」の残滓も、当時の日本はあったのでしょう。小型車の名称が「サターン」であったのも、GMから見れば中小の一連の自動車メーカーに、脅威を与え萎縮させる効果を狙ったのではないか、と思えるほどです。
しかし、「サターン=悪魔」といった威圧的な車名は、こけおどしでした。当のGMはいかにも純粋培養の資本主義の手本を示しました。すなわち、利幅やを主眼とするために、起死回生の救世主となり得たはずの小型車への転換といった活路への行く手を自ら阻んだのです。仏教的な深遠さからみれば、浅はかな顛末です。
もちろんGMの中にも、当然自動車作りに精励した方々は多かったと思います。おそらくは大多数の方々がそうであったものと拝察します。ところが、経営陣で主流を占めた者は、古典的なマルクス主義の大まかの予言通り、それまでに短期的な利益を上げるといった実績のある者で、それゆえにトップに上り詰めた者と思われます。
マルクスは経済学者で哲学者、社会学者ですが、企業内での人事圧力症候群まで掌握していたかは不明です。アメリカは第一次世界大戦後にイギリスを凌駕する世界の債権国となったのですから、少なくともマルクスの生前には、アメリカ的な資本主義をモデルケースとして論ずることは、少なかったのではないかと考えます。
アメリカ的な考え方、アメリカニズムを体現した大企業は、究極的にカンパニーとしての最優先課題の株主への高配当といった点を中心として、展開される機構である、といった論評が出来ます。
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