地方議会の論争は、その議論によって政治の矛盾点を顕在化し、弁証法的な対論を経て、止揚による何らかの価値を、住民生活にもたらすのでなければならないでしょう。本質的には何も違いは無いのに、わずかな形式的な差異に着眼して、反対側の勢力にとって不都合と思しき事柄を論点とした段階で、動機の不純さは免れません。少数会派であればこそ、正々堂々とした、確かな根拠と調査研究に基づく、「論戦」で勝負に挑むべきです。
論議を始めてはみたものの、自らの政治グループの中にも「諸般の事情で」不都合な者は過半数おり、グループ意思統一の無さを暴露し、一部脱退者を出す、といった見苦しい結果に終わる場合もあるようです。マックス・ヴェバーの著書『職業としての政治』で指摘された、「余りにも人間的な動機付け」によって、真の政治家はしばしば挫折を味わう、といった普遍的な真理は、21世紀の埼玉県議会でも当てはまるかもしれません。
埼玉県議会で、『政務調査費』(県政調査費)の会計処理の方法について、中道の会派内に混乱が生じ、保守系会派等による、採決の退席に対する懲罰動議も含めて、議事が深夜まで空転したようです。
そもそも、調査費の絶対額が多すぎるといった根本問題には触れずに、その使用目的の上で、ライバル会派よりは「より勉強している」といった、絶対的な差異ではない、せいぜい相対的な差異をあげつらい喧伝する動機や、県民の生活に直接関係の無い「神学論争」を得意とする「現実的な目的意識の希薄さ」が、露呈したといえるでしょう。
古代中国の思想家孟子の言行録『孟子』に、「五十歩百歩」があります。広辞苑によれば「少しの違いはあることはあるが、本質的には同じことだいう意。」とあり、「五十歩退却した兵が百歩逃げた兵を臆病だと笑ったが、逃げた点では同じだから笑う資格はない、というたとえ話から出た語。」となっています。
県民のためには、まず『政務調査費』の相等な部分を「不要額」として県の会計に戻して、「勉強代」として全てを費消できるはずは無いこと、証明しさえすればそれで十分だったのです。それに、向学心に燃える方ならば、私費を投じても学習するものでしょう。
そもそも、純然たる勉強代に充てられる費用は、月額50万円の極々わずかでしかないのです。ライバル会派が「勉強代」と称して、「社会勉強⇒観光」目的にでも使っている、と吹聴しようと思っても、月額50万円という膨大な「勉強代」では、土台本来の目的に使い切れる訳けが無いのです。
私も、地方議会の一人として、反省材料とさせていただきます。
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