現代及び現代以降の世界は、「ヴィジュアル」(VISUAL:映像的なるものが)、情報伝達手段の、そして瞬時の情報力の主流を占めるでしょう。言語や文書も基本的な情報及び知識伝達手段ですが、「ヴィジョン=映像」の直接的な説得力には及ばないと考えますし、映像の伝達手段の技術的な進歩、普及と安価化ともいえる傾向に、新聞等の活字媒体のジャーナリズムは太刀打ちが出来なくなるのではないか、と考えるからです。
政治の伝達手段は、人類の有史以来徐々に発展したと考えます。2,500年前程では、ギリシャのソクラテスも中国の孔子も、「弁舌」によって、肉声の及ぶ範囲の人々の耳に直に訴えかけるたでしょう。紙の発明以前の時代です。文章や手「紙」といった伝達手段は、「紙」という、軽く、薄く、短く、小さい媒介が未発達であり、補助的な手段、備忘的な存在であったと推測されます。
映像文化のかつての王座である「映画」は、先の大戦までは、戦争に関して、極わずかの反戦映画を除けば、多く「戦意高揚」に活用されてきたと考えます。
また、敗戦直後の日本で、アメリカの繁栄と「民主主義」を宣伝したのも映画であり、逆にアカデミー賞受賞作品でありながら輸入が禁止され、長らく日本国内で未公開であった、『紳士協定』(1946年)、『総ての王の家来』(1949年)の存在も、一般大衆が映像を批判的に受容する時代よりも前の出来事です。現代の視点から、感慨を持って振り返ることが出来ます。
映像文化は、伝える側の目的に応じて、変幻自在に加工されるものです。通常は、編集や演出とされる範疇の事柄が、客観的な情報伝達を妨げて来ました。それでも、映像媒体がほぼ万人に普及した現代では、ありのままの映像が好まれ、市民権を獲得しているようでもあります。
ことさら奇を衒った、所謂「パフォーマンス」も、かつてはソフィストの詭弁術、近くはナチスのゲッペルス宣伝相の煽動演説、今の北東アジア某国の国威発揚的アナウンスと、時代を下るに従って効力を減じており、全世界的な人々の観点からはむしろ揶揄の対象となっています。
この秋(とき)に当たり、映像についての肥えた眼を持った、過剰なほどに検証好きで、懐疑的、批判的な市民によって初めて、映像文化は政治の思想までも含めた、適正な的確な伝達手段への道を歩み始めた、と考えます。
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