『平和ボケ』とは、戦争をしたがる勢力が主として用いる言葉であろうと思われます。何とか『戦争をする国』に日本を誘導したい、にも関わらず様々な仕掛けに乗らない大多数の国民をどうにかして挑発しよう、との焦燥感が窺われます。
一方で、現実の世界情勢や国民一般の生活感覚と度外視して、殊更『戦争への不穏な動き』を、喧伝する側にさえも、国民一般はさほど反応していないのも現状です。
戦後あるいは敗戦後64年になろうとする日本に於いて、64年間の平和実績は、それ自体価値があると思えてきます。敗戦直後の社会的な混乱、戦争後遺症も年々逓減し、もはや戦争を意識しない程までに、日本国民は「進化」しているのかも知れません。
このいわば「戦争習慣から遠ざかった日本」こそが、平和憲法の賜物ではないかとさえ思われます。平和憲法の効用は、戦争を肯定的に意識しないだけではなく、存外「戦争を否定的にさえもも意識しない」といった段階にまで、日本人一般を『平和ボケ』とした点です。
かつての軍部のように、国民生活から切り離され隔絶された存在が、天皇直属で閉鎖的な組織を純粋培養的に増殖し、構成員は国民による選挙の洗礼を経ることなく、国民の生命や財産を露骨に侵害し、国民の犠牲を閑却して、戦争の地獄へと誘導するような時代は、おそらく再現される事は無いでしょう。
北朝鮮が現在のような軍事力を、まやかしも含めて誇示するのを放置したのは、日本の植民地支配と戦後の外交の失敗の産物でもあるでしょう。しかし、北朝鮮の核開発を奇貨として、あるいは、ロシアや中国のような近隣の大国の軍事的なプレゼンスの増大を引き合いに出して、「その対抗手段として、必要な軍備増強」を図る算段も、さほど国民全体に広がらない反戦運動で抑制されしまうのも、「戦争習慣」から遠ざかった、今の日本の『平和ボケ』の賜物でしょう。
戦争を肯定する人々が存在しないか、いても極僅かであるならば、作用と反作用との関連も働かず、定立も反定立も厳しくはならないのです。近代の歴史の事実を覆い隠そうとしても、現代人の感性ではその欺瞞は直ぐに暴かれるものです。「軍備増強」も国民的な肯定的世論が後押ししなければ、なかなか「達成」できないものです。
私宮岡治郎は「愛国心」そのものは肯定します。社会秩序の維持も必要でしょう。私自身学校時代を含めた40年来、「偏向教育で増長した詭弁」を労する生徒や学生、成人式で騒ぐ若者やアナーキーな中年に出会い、様々な有形無形の被害さえも被ってきた、という苦い経験も多々あります。
しかし、「愛国心」は、社会的には少数の人々が自己犠牲の範囲で負担するのが適正である、と考えています。「社会的義務感」も社会的に一定の地位にある人ならば、一部の例外を除いて、既に身につけているでしょう。国民一般が、「滅私奉公」の意識を持たない事、こそが正常なのです。