政治において、世の中の仕組みについて、現状を肯定し保持して行こうとするのが主義で、現状の少なくとも一部だけでも否定し、変革してゆこうとするの革新となるかと考えます。
これは様々に解釈される事があります。かつて保守とは経済的な自由主義を肯定する側、革新といえば計画経済を唱える社会民主主義、更に共産主義を肯定するがわ、と捉える時代が戦後長らく続いてきました。「保守」とは思想的に右寄り、「革新」とは思想的に左より、といった大まかな区別がつきました。
ところが、それ以前の戦前には、「革新官僚」とか「革新派」といえば、高度な国防国家を推進しようとする側、現在の視点からは「右翼」や「国粋主義」側を指してきたようです。
私宮岡治郎は、どちらにしても、「保守的」という事になるでしょう。これは、漠然と中学生時代頃から自覚して来ました。
長年にわたって続いてきた、制度には安定性があり、未知数の「革新」には、当然に落とし穴があると、経験則からも分かるからです。
現代の日本では、保守的な人は政治の世界でも少なくなってきたように思われます。長期的な安定性とは結果的に無縁となる政策や施策を強権的に導入し、それを保持するといった限定的な意味合いでは確かに「保守」といえるでしょう。が、そもそも「革新」的な制度を導入した時点で、守るべき慣習や伝統に基づく「保守」もないようです。
したがって、「革新」といった言葉も使われなくなってきました。政策的に対立する政権の振り子のような、交代を前提とするならば、どちらがより安定的か、どちらがより伝統的か、の価値基準も入り込む余地が無いのかも知れません。
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