真の革命家は、社会変革を目的とし、その受益者とはならないものでしょう。時として、革命に対する反動との際限もない闘争に没頭し、時として革命成就後も更に不完全感覚から永久革命理論に走り、その「永久」の実践によって、多くの人民に禍をもたらす場合もあるでしょう。更に、歴史的に多く現れるのは、革命家の腹心や協力者、同調者の中に、革命の果実を私物化しようとする輩の発生でしょう。
今晩、NHKのBSチャンネルで、1952年制作のアメリカ映画『サパタ万歳』(劇場公開時の邦題:革命児サパタ)を鑑賞しました。ダリル・F・ザナック制作、ジョン・スタインベック原作・脚本で、監督はエリア・カザン、主演マーロン・ブランドです。
1909年のメキシコを舞台に、映画は始まります。実質的な農奴制度の中で、土地占有の紛争から、農民の生活を守護したエミリアーノ・サパタの半生を描いていました。
当時のメキシコ大統領は、農民を「子どもたち」と呼んで、一人前扱いせず、独裁的な権力を振るって、組織的な搾取を行っています。そのような体質は、大統領を失脚させても、軍部によって温存されます。闘争の継続が多くの同志や農民兵、農民出身の正規軍や警官の犠牲を拡大するやりきれなさに結びつきます。
映画では、一途の革命家の味わう、不条理が様々な形態を取って現われます。革命勢力の軍律は厳しく執行できても、サパタ自身は「愛民」によって煩わされるのです。主人公が、敵対勢力や内通者等の計略によって、壮絶な死を遂げるもの、必然的な帰結とも思われて来ます。
そうであっても、サパタの死を信じない農民達は、サパタの生存、更には不滅を信じ、次第に英雄伝説化して行くのですから、不思議なものです。
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