文化の存立には、発信する側と受信する側とがあるのは世の常です。
また、その文化の背景となる地域、民族、時代思潮を体現する文化もあれば、その社会や政治体制に反逆する、あるいは内在する諸問題を提起する文化もあるでしょう。
私宮岡治郎は、そのような大別で、文化を把握する嫌いがありました。勿論、ほぼ純然たる娯楽文化の存立の余地も認めた上です。
しかし、文化の創作者は、社会に対して何らかの宣言・メッセージ的なものを、作品の中に含むものとの前提で考えてきました。
ところが、それとは別に「癒し」や「絆」の文化というものが、現実世界では相当なボリュームを占めているようです。文化の受信、受容者、需要者は、ある程度選挙での有権者に重なるでしょう。
この分野について、私はあまり意識したり、少なくとも考えの念頭に置いて来なかったようです。が、はにかみ屋、恥ずかしがり屋の芸能が、存外受容される素地は、幅広いようです。
尾崎豊のような、過剰に反逆する青春像として、偶像(アイドル)となっている場合は、目立つもののむしろ例外でしょう。
現実的には、社会や職場から期待されるような役割を果たすことが、困難か不得手、あるいは性格的になじまず、それを恥ずかしく感じている多数派の人々が存在します。その人々にとって、文化とは自分達の置かれた限られた立場を、理解してくれる内容であって欲しいものでしょう。それでこそ感情移入出来るのです。
その際、控え目な文化発信である方が、能動的に共感出来る、同感出来る、ものであるようです。
世の多くの人々は、「他人に目立たずに」生きて行きたいものでしょう。芸能人とは「目立つ」ことをもって成立する職業です。ここに矛盾があります。
ところが、俳優や歌手の場合、徹頭徹尾ショービジネスの論理の世界に没頭するタイプの方もいれば、むしろ、その逆のタイプで一応の成果を上げている方もいるようです。
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