自宅からマイカーで、今度は小田原と箱根方面に行きました。厚木から小田原への高速道路『小田原厚木道路』を活用し、途中の食事休憩を除くと正味2時間半程で、小田原に到着しました。当初小田原を浅く広く眺める予定でした。ところが、ある勘違いから箱根まで足を延ばすことになり、結果的に浅く狭く見るに止まりました。
今回は、初めに箱根山山系の石垣山山頂にある、『石垣山一夜城』の様子や、そこから見下ろした小田原城や小田原市街地、周辺の平野や遠方の大磯(曽我)丘陵、更に相模湾の眺望が目的でした。地図上有料道路が近くを通っており、また他に車の通れそうな道が無いと判断しました。が、有料道路の料金所で700円を支払ってから、係りの方に尋ねますと、『一夜城』には行けないとの事でした。
これも何らかの縁と考えて、有料道路をマイカーで走りました。途中2箇所の見晴台で下車して、小田原方面、相模湾で熱海沖に浮かぶ初島方面を眺めました。ところが結果的に後で『一夜城』から眺めるよりも遥かに絶景が展開されました。最後の展望台では、芦ノ湖や駒ケ岳方面を眺めました。富士山は生憎と曇って見えませんでした。
有料道路は途中下車が不可能でしたので、必然的に終点まで走り抜けました。その後芦ノ湖畔から、箱根関所や箱根神社の脇を通り抜け、国道1号で小田原市まで戻りました。目的地はあくまで小田原なので、箱根で道草というわけにも行きませんでしたが、結果的に2時間程のロスともなりました。
小田原市では、先日視察した早川小学校の周囲をマイカーで走り、途中何度か停車して学校の建物や校庭、校庭での体育の授業の様子などを眺めました。視察時は雨の天気でしたが、晴れの日に見る学校は、やはりすがすがしいものです。
その後は地図上目立たない細い車道で、『一夜城』まで上りました。途中、早川小学校が良く眺められましたが、意外なほど小規模な学校であることに気付きました。リニューアル済みではあるものの、南側の外壁の改修だけしか外からは目立ちません。屋上の赤い塗装は、高い所から見下ろして判明しました。南側の外壁が改修前に赤い色だったそうで、想像力を補うことが出来ました。
『一夜城』は、1590年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め、包囲した時点で本営とした石垣の城です。石垣としては比較的丸い中ぐらいの石が多数見当たりました。これだけの数の石を石切り場から取り寄せ、麓から運んだのですから、戦国時代とはかなり消耗の激しい時代だったと思いました。
次は、小田原城公園を堀の脇の駐車場にマイカーを止めて見学しました。小田原市立の『郷土文化館』を堀側から眺めるのは初めてでした。名所の一つとなっている藤棚の紫色の花が満開で鮮やかでした。
私は今回の調査の主要な目的として、堀の内にある『小田原市図書館』の図書資料で小田原について調べました。3階が閲覧室ですが、建物全体が「くの字」型に奥が長く続いており、正面から見るよりも内部はかなり広く、書架の書籍も充実していました。図書館は漠然と眺めれば本棚の形態だけが印象に残るに止まるでしょう。実際に本棚の本を、差し迫った具体的な目的をもって検索し閲覧しなければ、蔵書の揃いの状況は掴めないと思いました。
『歴史見聞館』では、シアターで「小田原評定」の語源ともなった、1590年の小田原城内部での、主君北条氏直と父氏政・叔父氏照との軍議の模様が、等身大の人形の動きと音声とで演じられていました。また、大きな模型的な地図も小田原城の城内町を含む城郭の構図を見ました。中世のヨーロッパの城塞都市と同様かと思いました。この館は、元の小田原市立「城内小学校」の講堂を改修して出来たものだそうです。
その後早めの夕食を、「だるま屋料理店」で取りました。1階の食堂では、内壁から格天井に至る「支輪」は通常の4分の1の円弧ではなくて、S字状に波打っていました。
更に、マイカーで北へ移動して、白山中学校を外から眺めました。校庭の一部が道路を隔てて南側にあり、跨線橋でつながっていました。白山神社の隣に在るので「白山中学校」というようです。「白山地区」とか「白山」といった地名はありません。校舎は老朽化しており、学校リニューアルとして真っ先に内部の改修工事が施されたようですが、外からは皆目見当がつきませんでした。
学校校舎リニューアルは、存外地味な施策であるようです。そもそも教育とは、人を内面から陶冶するものでしょう。外見的な見映えを競う嫌いのある商業主義や、ある種のパフォーマンス政治とは逆です。
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