去る4月27日(火)に市議会の福祉教育常任委員会で視察した神奈川県秦野市を、本日再び訪れました。目的は、視察報告書の執筆に当たって、根本的な認識(考え方)を補正する、細部の正確さを期する、基本的な錯誤を防ぐ、などでした。
勿論、今回初めて知った事柄も豊富にありますし逸話的な情報もあります。それらの殆どは報告書の行間に反映するでしょう。確かに、直接的に報告書に記載するには、わき道にそれすぎる事柄が多いのですが、このまま記録せずに「行間」に消えてしまうのも惜しいので、以下羅列的に記載します。
今回の訪問は、自宅からマイカーで赴きました。所要時間に関しては、自宅から青梅ICで圏央道に入り、中央道の相模湖東出口から国道412号を経て厚木ICから東名高速に入り、秦野中井ICで出るのが最も速いようです。実際は、その通りではなく、途中の景色を眺めたり、寄り道や道草をしました。
秦野盆地は東西に細長い形をしています。渋沢駅南側の渋沢丘陵の宅地開発は頭頂部の小田急団地まで進み、渋沢小学校やしぶさわ幼稚園まで近所に「併設」されています。
秦野市図書館の資料室の調査では、秦野地方の幼児教育(保育)や、その関連で次の点に印象をもちました。①明治時代の初期に政府は、「幼稚園の認可基準」を示したが、国立の模範幼稚園(女子高等師範学校付属)やミッション系以外は名乗りを控えた時期が続いた。これは、現在の「認定こども園」の立法と、現実の普及の遅さにもつながると思われました。
②秦野地方で、1915年の段階で公立幼稚園が開園した事情と背景は興味深いことでした。それは一定の経済的な基盤と、自由な気風とが必要条件で、更に企画力を持った人物や連帯が加わるようです。
③すなわち、秦野地方は明治時代以来地場産業として「煙草の栽培と加工」により、財政的に比較的恵まれ、公営の水道事業及び公営の電気事業が整備されていた。その素地の上に、1913年(大正2年)に、大正デモクラシーの自由な気風の中で、「煙草産業」にかかわる素封家の3人の夫人が共同で、私立の幼稚園を開園しています。つまり、「タバコ」と「大正デモクラシー」が鍵を握ったという訳です。
※この年1913年は、前年12月の明治天皇崩御の直後で、憲政擁護運動により、2月に大正政変がありました。尾崎行雄の衆議院本会議演説の、「玉座を持って胸壁となし、詔勅を以って弾丸に代へて」を思い出します。
④1915年には、神奈川県知事の認可を受けて、「認可幼稚園」となり、直後に幼稚園を秦野町に寄付しています。小学校の校舎の一部を改造し、砂場を設けて、園舎となっています。この時に、公立幼稚園が開始されました。
⑤これ以降の時代では、2階建の校舎以外の遮蔽物なく、スナップ写真の技術の発達もなく、記念写真や運動会の写真では、幼稚園児の写真の背景には、丹沢の山並みが写っている場合が多く、豊かな自然環境が偲ばれます。
⑥戦前戦中の丹沢地方は、軍需産業は皆無であり、戦災も受けませんでした。その甲斐もあってか、幼稚園は戦時中に休園や廃園がありません。幼稚園は平和の事業である証左でしょう。
⑦幼稚園と小学校の連携は、戦前から運動会や遠足などの行事で実施されてきました。また、在園率も戦後特に高くなり、市内公立幼稚園5歳園児数を、翌年の市内小学校1年児童数で割った「在園率」では、1960年代半ばから1980年代後半まで、概ね70%を超え、多い時には80%を上回っています。
⑧園児数のピークは、1979年の4,097人で、その後徐々に減少を始め、1994年からは2,000人を下回っています。秦野市が早い時期から、幼稚園園舎の「余裕教室」に「保育園」を移動したり、両者の一体的な運用は、相当に早い頃から開始しています。
市立図書館自体でも、幼児教育に力を入れており、「こどものへや」(子供への読み聞かせの部屋)や、広い『こどもフロア』(児童向けの書籍の開架)が設置され、児童書がなんと15万7千冊余りとなっています。
秦野市の工業団地は、計画的に造成され、広い街路と、ゆとりある工場敷地となっています。秦野駅北口より北に離れた地域が中心市街地的で、商店街を形成している、国道246号の旧道であったであろうと推定される。
末広小学校とすえひろ幼稚園(現在のすえひろ認定こども園)の敷地は、水田を秦野市がまとめて公有地化したもの。
北の丹沢山地の標高600m程にある、『菜の花台』の展望台からは、秦野盆地が一望出来る。盆地の中心部は、真っ白で、可住地は殆ど、住宅地、商業地、工業地として立錐の余地も無いほどに活用され尽くしている、といった印象を持ちました。
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