文章の読解であるならば、「文字通り」解釈するとか、行間の意味合いを補足すれば、事足りるとなるでしょう。仮に文章の執筆者が、内心の意思を秘匿するとか、的確な表現をし損ねた場合でも、一人歩きし始めた文章を唯一の媒体として、それを唯一の手掛かりとして、解釈するのが、読者として最善の方法でしょう。あらぬ憶測や、偏った思い込みは、本来の意思から大きく外れた解釈につながる場合が多いと考えられます。
ところが、現実の会話や対話、雑談や訴え、説教や唆し、などの場合、『読心術』の必要性を認識するようになってきました。「相手が、このように話したのであるから。私は当然文字通りかくかくしかじかに解釈した、それで文句があるか。」といった言い分は、仕事を委託される側では充分でも、仕事を委託する側や、様々な利害調整を図る側にとっては、充分であると言い切れない場合があるでしょう。
『読心術』とは、広辞苑では「顔の表情、筋肉の微細な運動などを通じて相手の思念を感知する術。」となっています。
要するに、「嘘発見機」としての技能のようでもあります。本心を言わない場合、大抵の人では、表情に何らかの不自然さが現れる、というのは誰でも経験則から知悉しているでしょう。
私としては、初対面の人ならばともかく、相手の行動の形態と、その前言や後での説明、場合によっては弁明を、公式化や計量化しておき、相手の言動について、一定の補正係数を付加して解釈するのはどうか、と考えています。
よく、心にも無い事や、事実に反する事柄、意図的に曲解した論理を、対話の相手に突きつけて、相手の反応をみる、俗に「鎌をかける」といった、方法を常態化する人いますが、そのような行為は邪道でしかない、と私は考えています。
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