1日(水)にジョージ・オーウェル(1903~50)の随筆、『象を撃つ』を再読したきっかけは、その前日に読んだ、中島敦の短編小説『虎狩』からの連想でした。人間対動物の対峙といった、一種神聖で荘厳な状況と、植民地支配下の周囲の人間群像との、奇妙な対比の中に、封建制や植民地支配、民族差別などの諸問題・諸矛盾を、鮮やかに浮き彫りにしているからです。ビルマとソウル近郊と 場所は違っても、いずれも「植民地で」あり、偶然にも時代は1920年代中葉です。
オーウェルは、英国人としてインドに生まれ、幼少時代をインドで過ごしてはいますが、中等教育は本国イギリスのパブリックスクールのイートン校で受けています。なぜか大学に進学せず、当時の大英帝国の植民地ビルマの統治機構の中で、一警察官として、とある派出所に勤務します。
その管轄区域で発生した、発情期の象の騒ぎに遭遇します。護身用にライフルを持参して、既に「さかり」の収まった象に接近し、持ち主に引き渡そうとします。ところが、背後に集まる千人ものビルマ人達の、象射殺の願望圧力に押されて、止む終えずに象を撃ちます。
ところが、ライフルに装填した5発の銃弾では絶命させる事が出来ません。死に行く象を見届けることに忍びずに、その場を去る、といった不条理な結果を招きます。英国人や米国人が、通常趣味の範疇として、少なくとも当時では殺生の罪悪感もなかったであろう、と思われる行動が、オーウェルの体験と筆にかかっては、文明批判を含んだ多くの意味合いを惹起させるのです。
この実録的随筆は、植民地支配や封建制によって、主体性の欠落した住民を、「象の射殺」といった逸話に基づいて、様々な角度から、筆者からみれば情けなく、腹立たしく、悲しい存在として取り上げる事に主眼が置かれています。が、現代的な解釈としては、多くの群集心理が、無益な殺生を招く、といった実例としても解釈され得ると考えます。
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