現在及び将来の日本の安全保障への危機意識に駆り立てられて、私なりの行動を取った一日でした。マイカーで古河市に赴き、市立の『古河歴史博物館』及び『鷹見泉石記念館』を見学しました。
主たる目的は、江戸時代末期の古河藩家老の鷹見泉石(たかみせんせき 1785~1858)の事跡の調査や、泉石の晩年の居宅の現物を眺める為でした。泉石の生きた時代背景、冷静な人格を支える思想、人的ネットワーク、蘭癖大名の藩主土井利位(どいとしつら)への仕え方など、おぼろげながらも潤沢な教訓が得られたものと思います。
藩主土井家は徳川家の譜代大名であり、利位も家老泉石の功績の甲斐もあって、大阪城代から、三の丸老中、本丸老中へと昇格し、幕政に深く参与します。家老の泉石も「日本」という単位で海防(国防)を模索する立場となり、多くの海外の情報を収集・分析・発信しているのです。幕閣の重役といえども、半ば「ご禁制」を犯してまでも入手した資料さえもあります。
圧巻は、1837年に起こった「大坂」の与力を首謀者とする『大塩平八郎の乱』での対処と、その後の自身の挙措です。大坂城代の土井利位の配下として、鎮圧に向かったときの状況。「確信犯」大塩を生け捕りにしてた上での取調べの願望。大塩自死等で一件落着後に古河に戻りますが、藩主に代わって歴代藩主の墓参の後の心境です。泉石は、大塩を滅した事に一抹の寂寥感、場合によっては、自責の念を持っていたのでは無いかと私は、推測します。
それが如実に描かれたのが渡辺崋山による、『鷹見泉石像』(国宝)です。ついでに、その西洋画風の作画の文化財的意義についても、学習しました。
泉石の位置付けの微妙さは、友人の渡辺崋山は「蕃社の獄」で弾圧され、大塩平八郎の反幕府武装蜂起では鎮圧を果たし、井伊直弼の「安政の大獄」の時点では、既に引退し死亡していることです。
蛮社の獄の際に、泉石が渡辺崋山を弁護した形跡はありません。むしろ無関係を装ったものと思われます。これは私的な保身というよりも、譜代大名の家老といった体制側の人間の常として、主君土井利位や古河藩全体へ累が及ぶ事態を怖れたため、と思われます。
今回の見学ドライブの付帯的な成果としては、①圏央道の川島IC~桶川北本ICの開通区間の走行。②「加須うどん」を昼食として食べた。③JR古河駅を中心に西側の市街地の状況を把握。④旧古河城の出城跡地の堀や石畳の整備や博物館・文学館の文化ゾーンの在り方。更に、⑤市街地の北西方面に広がる『渡良瀬遊水地』の、現況の目視などがありました。
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