何らかの事実について、複数の当事者が存在すれば、各々の当事者は、事実を多かれ少なかれ、自己に都合よく解釈し、表明するのが現実でしょう。そもそも客観的な事実なるものが、そもそも存在するか否かも、懐疑的に扱われる事さえあります。
政治的な存在である、市議会議員が、何らかの行政課題や、社会問題、教育問題について、協議会で市執行部に、質疑する場合があります。その際、議員は「事実」について第三者であり、客観論で迫る条件と資格があります。
ところが、その質疑の角度から、その事象への党派的な、価値判断が判明するのは、ごく普通のことでしょう。しかし例え、それが予断であってさえも、意義のある場合が多いのです。
学校教育問題についても、①教育を管理する側の危機管理責任や監督責任といった視点から質疑する場合もあります。また、②直接的に教育者としての生徒との信頼関係を重んじる場合もあります。また、③教育する側に、一定の社会的発展段階での啓蒙が不足しているのではないかといった批判もあります。
更に、④生徒側への調査が、成績考課を含む、教師の日常の権限による軋轢や集団同調主義による歪がかかっているのでないか、とする指摘もあります。また、⑤当事者の一方と、特殊な人間関係を有した、傍観者を偽装する通謀者によって「事件」とされ、事実そのものが歪曲されているのではないか、といった質疑もあります。
①は、教育の現状への一定の不満を前提に、質疑しています。②は、教育現場を尊重しよとする視点からの、教育者への擁護です。③は、啓蒙主義的な立場から、現状の後進性への苛立ちがあります。④は、管理体制に対する批判が根底にあります。⑤は、社会秩序維持指向や報道批判が基礎に横たわっているようです。
「生物多様性」が、注目されています。 「多様性」は、生物の存立だけでなく、政治の存立と熟成にとっても、不可欠であると考えます。多元的な、思想やイデオギー、更に利益、価値判断の差異によって、政治は深まり得るものでしょう。日本は、一党独裁国家ではありません。
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