中国の古典『孟子』の中に、「声聞過情、君子恥之」というのがあります。書き下し文では、「声聞(せいぶん)情(じつ)に過ぐるは、君子これを恥じる」となります。
私はこの文を、「自分への世間の評価が、自分の実際の実力よりも上回るならば、君子はそれを恥じるであろう」。なんとなれば、虚名は、自分が何らかの自己宣伝を行った結果、生ずるものであるから、と解釈してきました。
ところが、「声聞」が「情に過ぐる」かどうかの区別は、その前提となる文によって、限定的に解釈されるべきでした。すなわち、継続的な実力発揮の「源泉」・「根本」の有無を指標とするようです。
そもそも、自己宣伝だけで、盛名を馳せる、あるいは虚名を作り出すことは、不可能でしょう。
コメント