今から2500年程前の中国の思想家孔子は、音楽を精神を調和させる手段として、君子の嗜むものの一つに取り入れていたようです。それは、楽器の演奏を聴くといった手段によって、精神を「整える」といった効用のようです。
言行録『論語』の、泰伯第八の八で、「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」とあり、現代語訳では、「先生がおっしゃった、人は詩によって奮い立ち、礼によって自己の義務を自覚し、音楽によって自らを完成させる。」となるようです。
私の場合、音楽を、自己完成の手段とはしにくく、妙に「深入り」する傾向があるようです。何事も程ほどに嗜むのが肝要かも知れません。
かつて、中国古典文学の学者でもあった作家高橋和巳(1931~71)は、小説『悲の器』(1962年発表)のなかで、主人公の法学者が、儀礼的に参加したピアノ演奏会で、音楽が自身の頭脳の構成力を崩壊させるような意識をもった、といった要旨の描写をしていたはずで、この正月、私はそれを思い出しました。
文庫本で確認しました所、第二章で、以下のように描かれています。
「道を歩むときも私の脳裡を離れない、私の現象学的法学理論の建設への執着が、そのとき不意を衝かれて掠めさられた。漫然たるいままでの音楽への嫌悪は、ラジオでも蓄音機でもなく、はじめて聴く肉音の高潮に崩れかけた。・・・」
とあるのですが、どうも音楽そのものというよりも、主人公の別の嗜好も含まれた表現であったようです。
私の予期せぬ発見は、主人公正木典膳の年齢設定が55歳となっていることでした。今のわたくしと同じです。いくら天才肌の作家とはいえ、30歳そこそこで執筆した小説で、私の年齢の人間の心理が果たして描ききれるものか、別方向の興味も沸きました。
さらに読み進めますと、第四章で、なかなか味わいのある叙述が出てきます。
「そのとき酒場でなっていた蓄音機の軍国歌謡が、音楽の嫌いな私の耳を奇妙にもの哀しくうった。個我を群集の中に埋没させようとするときにおこる、あの内的な軋轢の音のようにレコードは軋む。その同じ軋轢が、燃焼し、表面にでようとする私の反省を埋没させるのに役立った。」
ともかく、私にとって音楽とは、軽く聞き流す程度が、政治活動のためにも、適切なようです。音楽は、精神的調和を成す時に最大の価値があるのもので、決して「深入り」すべきではない、というのが今年早々の感想です。