政治においては、積極的に虚構を作り出して、その虚構を喧伝した上で世論を動かし、示した虚構とは別の実利を追求する形態があります。そのような割り切り方をする人が、政治の世界では多いようです。従来の「常識」とされるものに対峙し、変革を求める政治には、割とそのような場合が多いものです。
支援者側も、実利的な要求を貫徹すつことを望んではいるものの、大義名分がなくては締まらない、といった気持もあるからです。これが、政治の主流をなしているともい言えるでしょう。現在の日本の政権は、そのような政治手法と世論との同調によって成立していると考えます。
その判断基準から見下ろせば、私の「待ちの政治」は、はなはだ消極的なものと論評されざるを得ないでしょう。世の中の人々は、積極的な政治の様々な分野への進出(介入)を期待する向きが多いのです。
社会的な諸矛盾の中で、主要と認められる矛盾を摘示して、その止揚を冒険的な手段で遂行しようとする勢力に、私は、「一理ある存在」として一定の敬意を表しながらも、結果的には牽制する側に立ちます。
かといって、反動的に、復古的に、かつての社会的な矛盾を復活させるとか、同じ過ちを未来にわたって、拡大的に繰り返すといった勢力にも、組する事はないでしょう。
私は元来保守的な人間です。その保守主義の原点は、戦前や戦中の日本に原点があるものではありません。私の保守性は「戦後民主主義」に原点があります。残念な事ですが、多くの地方議員が、歴史的な教訓や歴史的な原理・法則、歴史的な帰結について、勉強不足である事に危機感を抱いています。
杞憂に囚われた誤った判断として、後で哄笑の対象となる蓋然性がありますが、私は、戦争を早い段階から阻止する事に政治生命をかけることもあるでしょう。その社会的、国家的、民族的、敢えて申し上げれば優生学的にさえも、多大な喪失をもたらすのは必定だからでしす。
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