孔子の言行録『論語』の学而第一篇の第十六に、原文では、「子曰、不患人之不己知、患己不知人也」、書下し文では、「子曰く、人の己を知らざるを憂えず、人を知らざるを患う」があります。
この後段を、「他人の真価を理解しないのを、憂慮すべし」と解釈すれば、私が「憂慮」すべき状況を放置し、「論語読みの論語知らず」を実践し続けた事例が、私のさだまさし氏(佐田雅志1952~)の作詞・作曲・歌唱・楽器演奏への無理解でした。
私には、学生時代からの友人で、さだ氏に顔の似た人がいて、「さだまさし」と聞くと、ついその人を連想してしまう癖がありました。勿論友人の責任ではありませんが、さだ氏については外見的な印象に止まるばかりで、音楽そのものに深くは浸透しませんでした。
また、さだ氏の代表作の一つ『関白宣言』ぐらいしか知らず。コミカルではにかみや的な文脈のみで、その作品の巧みさに「感心」はするものの、一連の作風に流れる、「人情の機微」を、そのような文脈だけで憶測し、今日まで来てしまいました。
そもそも「人情の機微」といった言葉が、かなり不誠実であったり、油断出来ない人々によって悪用されたことが、私の人生には数々あり、私は出来るだけ、「人情の機微」なるものからは、意図的なくらい遠ざかって来ました。
さだ氏が1977年に作詞・作曲し、歌手山口百恵さん(1959~)が18歳の時点で歌い始めた、『秋桜(コスモス)』を、最近ユーチューブで聴いたり、歌詞を印刷して検証したりしています。
覚えにくい歌詞で、諳んじて筆記しようと思っても、誤記が数箇所発生してしまいます。暗証して歌うとしたら、最も難易度の高い歌となるでしょう。そもそも語順や、語尾などに疑問があります。
しかし、そこが私の「人情の機微」を弁えない所以であり、さだ氏の感性と、雲泥の差の際立つ所以となるでしょう。
「何気ない日溜りに揺れている」といった「穏やかな」情景描写、「心配要らないと 笑った」の、「笑った」でどっと泣けてくる、心打たれる詩興。
「突然涙こぼし 元気でと」との「別離の哀愁」と、「生きてみます 私なりに」の、前途への試練の予感と、最期の「子供でいさせて下さい」の結び。
かつて、中国の三国時代の諸葛亮孔明(181~234)の『出師表』を評して、「読んで泣かざれば君子にあらざるなり」、というような意味を誰かが論じ、古来定説となっていると思いますが、私は『秋桜』を、しみじみ「噛み締めながら」、今後も聴かせていただきます。
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