『調べ学習』というものが、文部科学省や各教育委員会から打ち出されて、久しいかと思います。能動的な学習習慣を身に付ける事は、民主主義の根幹をなすものでもありましょう。
「独立自尊の精神の涵養」とまで行かなくとも、少なくとも、他者への依頼心や、時の権威への無条件の依存、時の権力への無条件の追随もから脱却することは、日本がかつて歩んで来た過ちを繰り返さない為にも重要でしょう。
かつて、関東大震災(1923年)といった自然災害に端を発する、様々な社会混乱への対策として緊急的に制定された法令や制度が、その後廃止にあるとか緩和されるのではなく、巧妙に強化され日本を軍国主義へと導き、更に大きな災厄を国民にもたらす、15年戦争の惨禍をもたらした教訓は、常に念頭に於いて政治活動をして行きたいと考えています。
学習の方法を指導するのは、小・中学校の教諭等であり、図書館資料の検索や参考情報業務は司書達によって、日常的に果たされています。
ところが世の中は不可思議なもので、この『調べ学習』に真っ向から挑戦する御仁も存在することに、気がつきました。それは、日本の政界の有力者とされるある政治家です。この御仁は、未知の事象について、「自ら不明を恥じる」といった姿勢は取りません。むしろ、役人からの「説明が無かった」 あるいは「説明が充分では無かった」となります。
国政から県政、市政に至るまで、政策についての見識について大いに疑問符の付いている政治家は、かなり多いものです。専従の公務員(役人)に対して、政治家が優越する為の手段として、専従の公務員が立場上反論の権利の剥奪された状況下で、政治権力の形成手段の一環として、よく用いられるようです。
現在、入間市議会でも議会改革の一環として、本会議での、議員の質疑・質問の対する執行部側(部長)からの、「反問権」の付加が俎上に登りそうです。
質疑・質問の内容や趣旨を確認するための「反問」に限定されるようですが、それだけでも、議員の資質や識見、さらに重要な徳望までもが、剥き出しとなるでしょう。
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