日本史を体系的に学習し、全体的な座標をおおよそ掌握しておけば、郷土の歴史資料と出会った際に、その出来事や資料の記述時期・背景が、どのような全体の歴史を背景とするのか、把握出来るものです。
ところが、その逆の場合でも効用がある事に気が付きました。すなわち、郷土史学習が、日本史全体の理解の相当な助けになる、といった効用です。この方が歴史学習の順序としては、正攻法であるのかも知れません。
『いるま市議会だより』6月定例会号(8月1日発行)で、私は自分の一般質問の記事で、『天保七年の古文書』の写真を掲げています。災害の歴史資料を質問した内容で、自然災害は天候不順も含まれ、それに起因する『凶作』が提示された事に対応する、古文書でした。
「天保七年」は、西暦1836年に相当します。江戸時代末期に近く、天明期と同じく、凶作による飢饉が発生しています。特に1936年の天保7年は厳しいさの頂点となった年でした。
「大阪」で、元与力で陽明学者の大塩平八郎が中心となり、『大塩平八郎の乱』を起こしたのもこの年でした。地元のかつての凶作と、「大坂」の出来がつながって、実感を持って、日本史を複眼的に学習出来ました。
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