島国日本の歴史は、古代史以前と近代史以降が、多民族(国家)的な要素が加わるものの、ほぼ単一民族の治乱興亡が繰り返されてきたようです。一見、天下泰平のような、平安時代や江戸時代でも、実質的な政権内部の変革の時期はあります。
かなりウエット(感情的)で、内輪もめの争いの連鎖の中で、最終的に長期的安定的な政権を確立した者の中に共通する、ある種の法則を私なりに見出しています。
それは、待ちの態度、熟柿戦法、世が戦乱に飽き飽きする時代の見極めといえるでしょう。
実例を列記しますと、①藤原北家、③執権北条氏、そして④徳川氏です。これらは、戦闘意欲満々の有力勢力の相打ち的な勝敗興亡の間は、勝ち組に乗ってその存在を誇示する事もなく、負け組と心中する事もなく、世相が乱世に飽きてきた段階で、政権を打ち立てて、最終的に何代も継続しています。
①藤原北家は、藤原不比等の四人の息子の次男藤原房前から始まっています。が、南家(仲麻呂)や式家(広嗣・仲成)のような派手な権力志向もなく、二代を過ぎて、平安時代の初期になって初めて、嵯峨天皇から令外の官の秘書官として「蔵人頭」の冬嗣が抬頭します。
その後は、北家内部の内紛(兼通と兼家、道長と伊周)はあっても、殺伐とした事態には至らず、藤原道長・頼道の絶頂期まで、2世紀の長きにわたり政権をほぼ独占します。
②執権北条氏は、桓武平氏で清盛を頂点とする伊勢平氏と同族です。長年、伊豆の「僻地」で甘んじてきた為か、清和源氏と伊勢平氏の盛衰の歴史で、バランス良く立ち回ります。
奥州藤原氏のような損な役割はせず、かなり荒業を発揮して、鎌倉幕府の政権の簒奪者として、ロボットの将軍(藤原将軍・皇族将軍)を擁立して、百数十年程実権を握ります。
③徳川氏は、17世紀初頭から19世紀半ば過ぎまで、世界の歴史の激動期に、実に2世紀半以上もの間、単一の政治基盤を保ち続けます。松平元康(徳川家康)は、三河武士以来の譜代の家臣を温存し、若年期には武田信玄と三方ヶ原で干戈を交えるほどの存在感を示しますが、ともかく生き残ります。
織田信長の無理難題(築山殿事件)にも耐え、豊臣秀吉の人たらし(実の妹の旭姫を正妻に迎える)にも程よく応対しています。信長の横死(本能寺の変)、秀吉の衰弱死の後、最終決勝戦に残り、石田三成を相手に楽勝します。
その後は、豊臣家を滅ぼし(大坂の陣)、味方として戦った福島正則を改易して、政権を盤石にします。