一昨日の日記で述べました妙宣寺の境内に、日野資朝の墓所がありました。それも五重塔の隣の敷地にありました。佐渡島は、古来都での政争に敗れた「やんごとなき」人々が、島流しとなって来た地でもあります。
日野資朝(1290~1332)は、鎌倉時代末期の公家で、後醍醐天皇の側近。1324年(正中元年)、新政を目指す後醍醐天皇の討幕運動に従いました。しかし、討幕運動は鎌倉幕府の京都の出先機関「六波羅探題」に内通する者もあって失敗に帰し、資朝は捕縛され鎌倉へ送られた末に、佐渡島へ流罪となりました。
7年後の1331年(元弘元年)、後醍醐天は皇再度の討幕計画を企て、再び失敗し隠岐の島に流されたました。ところが今度の討幕は、2年間の経過を経て、1333年に達成され、鎌倉幕府は滅亡しました。
ところが、佐渡島流罪中で、この企てに参与出来るはずも無い日野資朝は、これに「連座」して、斬首となっています。
皮肉なことに、正中の変の際に、幕府に内通した者が、「主上(後醍醐天皇)を慮り、無謀な行動を止めた」との扱いで、建武の新政で取り立てられています。
封建時代の時代、民主主義の無い時代では、「罪刑専断主義」がまかり通っています。現代ならば、執行猶予付の刑罰はその「犯罪者」の一身上の用件で定まるでしょう。
現代の文明社会の法的な安定性を担保する、「罪刑法定主義」や「一時不再理」の意義を、再認識し、その価値をかみしめています。
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