午前9時頃から11時15分頃まで、西武中学校の卒業式に来賓として出席しました。同校は入間市内の中学校で最も規模が小さく、卒業生は男子49名、女子38名の、合計87名でした。
『国歌斉唱』の次の『入間市の歌』斉唱では1番だけ歌い、その次の『校歌斉唱』では3番まで歌いました。
この西武中学校の『校歌』は、1番で仏子を、2番で野田を、3番で新光を賛美しています。旧西武町の中学校の校歌として、1956年(昭和31年)に作詞・作曲されたもので、3番まで歌って初めて曲全体の歌詞の意味が完結する内容となっています。
校長の式辞では、まず、体育祭で3年生が1・2年生を含めた各団(3つのチーム)を良く纏めて指導した事、音大のバッハザールでの合唱祭での努力した事へ、ねぎらいと感謝ありました。
そして、東日本大震災に際して、連帯感の大切さを述べたかと記憶します。その好ましい実例として、生徒が募金活動を「校外」の仏子駅前で朝3日間実施し、30人が参加した事が紹介されました。30名が同一の生徒を含む累計か、別々の生徒の累計かは判然としませんでしたが、学校の外での行動を重視しているようでした。ちなみに、募金額は13万円程であったようです。
また、被災地の写真を校舎の廊下に掲示し、「思いやりの心」を持つ意味、更に広く「感謝の心」についても述べました。「絆」といった、紋切型の言葉は出なかったかも知れません。
「卒業生を送ることば」の在校生代表は、文章を草案から練り上げ、自ら綴って推敲し、それに教員が多少筆を入れたものと思われます。かなり朗読の練習をしたらしく、殆ど諳んじて澱みなく話しました。白紙に目を落とす事は殆どありませんでした。
「卒業生のことば」の卒業生代表は、それに輪をかけた程の傑出した出来栄えでした。さりげない語り口の中で、勘所を掴み、寺の住職の法話や、教会の牧師の説教の感もあり、日頃、他者の執筆した文章の読上げに飽き飽きしている私にとって、崇高なものですらありました。
「保護者代表のことば」の保護者は、私や私の妻の知り合いの声楽家でした。一通りの挨拶の後、オペラのアリアの披露もありました。上手でよく会場の体育館に響き渡りました。
「卒業式の歌」の『旅立ちの日に』は、男女混声の二部合唱で、私も口でパクパクとなぞるように歌いました。こ曲を、私はユーチューブで習っています。細部というよりも、曲の基本構想での見事さに圧倒されるのです。ふと、孔子の言葉「朝に道を聞かば夕べに死すとも可也」まで、想起す程です。
最後の盛り上がりで、女声が先行し、男声が追随するところが「特長」です。いつもの芸術至上主義的な感動ともう一つの要素で、自分らしくなく涙ぐんでしまいました。昨年の同じ3月15日の同じ会場での同じ場面、を思い出したからでした。
昨年の3月15日の卒業式は、フクシマ原発の事故がどう拡大するのか、私の人生で最大の危機意識を持った時でした。 それと同時に、会場の中学卒業生や在校生に対して、伯父世代の大人として、更に政治の末席に連なるものとして、私宮岡治郎は、原発事故を発生させた道義的な責任に、最大限苛まれていたのでした。
「15歳の春」に、「この広い大空に夢をたくして」と歌われる合唱を目前にして、ミドルティーンの彼等彼女等から、「希望」や「未来」、「夢」を消し去ってしまったのでは無いかといった、最大級の重罪の、償いようの無い後悔だったのです。
もし、仮に、この破局的事象が大事に至らないで済んでくれるならば、そうなってくれさえするのならば、私は、今後決して「原発推進に加担しない」といった、神に祈る誓いを胸に持った時でした。
その誓いには、取り返しのつかない事態を招いた事への、大いなる後悔も込められていました。既にその時点で半ば手遅れなのです。
この意思は今も寸分変わらず同じです。宗教的な誓いを持ち出すまでもなく、それ以上に「武士に二言は無い」ものなのです。