私にとって戦争のイメージとは、同世代の入間市民の平均的なものであろう、と考えました。実際に戦場にいた経験も、況や戦闘に参加したこともなく、入間市が直接、組織的な空襲などの戦災を蒙った事もなく、あくまで創造の域を出ません。
1956年、先の大戦の終了後10年余り後に生まれた私にとって、戦争は時間的に近い存在でした。父が出征しており、母方の伯父3名は出征の上戦死していました。
1956年の経済白書では、「最早戦後では無い」と記述されたように、経済統計的には戦前の水準を回復しており、敗戦に伴う混乱は、一応の収束を経たようでした。
個人的、社会的、国家的、国際的な後遺症を残してはいるものの、それが『太平洋戦争』に起因するものと割り切れる限り、反射的に、平和のありがたさを享受出来る幸せを噛み締める、といった思考回路がおおむね作用していたようです。
同時に、『日本は平和である』といった言葉が、様々な社会問題について、それが平和な社会背景を前提に発生すると短絡的に判断する向きからは、社会批判的にさえ使用されていました。
たとえば、公害問題や医療問題のついてさえも、戦時中であるならば取りざたされないものを、「平和ボケ」の世相であるから、問題視するのであった、正にそのような悠長な『日本』は『平和』である、といった調子でした。
こうなると、戦争そのものの悲惨さや、広範囲に波及する破壊行為のイメージは、子供心に育つことが少なく、後年、戦争の終結からかなり過ぎて、21世紀になっても、撲滅出来ない、各種の国家間の戦争や地域紛争の生々しい映像によって、実感されるようになった、というかなりイレギュラーした、内容となっているのです。