「恥」という言葉について、「恥をかく」とか「・・・の恥」等と、対世間的なものとして、私は、初歩的な段階では理解していました。西欧の文化を「罪の文化」として、それと対比させて日本の文化を「恥の文化」と喝破して、文明批評家も確かいたかと思いだします。
しかし、長い人生経験と、思想書や評論などから、「恥」とは、「恥を知る」とか「恥じる」などといった、内面的で自発的なものが本筋であって、「みっともない」といった意味での「恥ずかし」などは、派生的に表れたものであることが、徐々に判明し、理解できるようになりました。
私も団体の一員である、『日本行政書士会連合会』発行の、『月刊 日本行政』(2013年4月号)の「調停を考える」で、九州大学法学部教授のレビン小林久子氏の、論文で加害者に謝罪と償いを求める場合の方法として「再統合的恥付」が、応報刑の場合にしかならない場合として「懲罰的恥付」が提示されています。
加害者に、自発的な「恥ずかしさ」を気付かせるのが主眼であって、対外的な「恥をかかせる」のは、副次的な作用である、といった意味合いの様です。
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