原則として政治責任は無限責任であろう、との覚悟を持って過ごして参りました。 それは、圧倒的多数の衆議院の議決で可決成立した、1924年(大正13年)の、「治安維持法」の成立と。その後1945年に至るまでの歴史を対応させて考察した場合、感慨にふけった末での、私なりの結論でした。
同法成立直後、圧倒的少数の反対派の代議士が、同法を成立させてしまったことの「反省の弁」を述べている談話が、当時の朝日新聞の記事として掲載されている例を読んだこともありました。 反対さえすれば、政治責任は免れる、といった生易しものではありあせん。 衆議院全体に働きかけて、「治安維持法」成立を阻止出来なかった、反対派議員の一人として、反省しているのです。
但し、現代の視点から「治安維持法」の成立を絶対悪とするのも、多少ブラックユーモア的に考察すると、予見可能性の範囲を超えて、予見不可能の世界への際限のない妄想につながるようでもあります。
政治とは、善意を動機として発言し行動しても、結果が悪となっている事例は、枚挙に暇が無いものです。
では、動機が悪意であって、結果が善となる事例は、果たしてあるでしょうか。 個別の人々の「私利私欲」や、企業の本来的な目標の「利潤の極限までの追求」は、当然の如く、政治に反映されます。
原始的な自然主義や、本来的な平和主義を礎に、「悪を欲して、善を成す」ことが、現在の政治状況を前にして、政治家に求められているでしょう。 それでも、「責任を取れ」と後に避難されれば、それも甘受するのが、政治家の宿命といえるでしょうか。