視察旅行中の3日間に溜まった新聞を読んで一日を過ごしました。 7日朝刊に、6日の広島市長平和宣言全文が記載されており、『核兵器』を『絶対悪』として、告発している事を確認しました。 広島市長の宣言として、世界への発信としては、適切であると考えました。また、単に『原爆』と限定しないのは、賢明な配慮でしょう。
しかし、私は更に補強して論じたいところです。 『悪』とはそもそも、偏頗なものでしかなく、調和のとれた『善』の対立概念として掲げるには、値しないと考えるからです。 『悪』とはかように、「劣位」に置かれるべでしょう。 したがって、『絶対』などといった立派な言葉で修飾するには当たらないのです。 これは、確か哲学者の西田幾多郎が、唱えていたかと思います。
確かに、核兵器廃絶の運動で、基本的に人類の滅亡を防止する、直接的・中心的な行動で『核兵器』に『絶対悪』といった強烈なレッテルを貼り付けて、告発することは、広範な大衆の共感を呼ぶためには、必要な条件です。 が、その際にも、『核兵器』を作り出し、威嚇の為に保持し、あわよくば使用しようとする、あるいは、既に行使した人間について思いを致さねばならないでしょう。
この人間とは、かなり多数の人間たちであり、一国家を揚げての組織的な計画に基づく、集団の行動であった筈です。
広島市長の平和宣言は、政治性を当然に有します。特定の人々の集団や、その背後に厳然として存在する特定の国家を想起する内容には、当然出来ないところでしょう。
したがって私は、核兵器の開発・保持・使用が、『愚行』であると指摘する、論点も欲しいところなのです。 それは『小人』の行いであるからなのです。
思いますに、二千五百年程前の中国の思想家孔子は、言行録『論語』の中で、『悪』といった言葉を用いたかどうか、記憶にありません。 頻繁に『論語』に『悪』が頻出することは無かったはずです。
孔子が、君子の対立概念として反定立した『小人』は、つまらない者、愚かなる者、心の小さな者、であって、そもそも論ずるに値しない者たちなのです。
核兵器を開発・保持・使用する者たちを、つまらい者、愚かな者、心の小さな者として、矮小に扱う姿勢も、反核運動に欲しい概念なのです。
『絶対』などといった、たいそうな、立派な言葉で、修飾するに値しないのが、『核兵器』を、玩具にする、独裁者や専制者の悲しい本質なのです。 それを単に『悪行』それも絶対的な『悪行』といった角度から考え、世界に発信しても、当の『悪人』にはさほどの痛痒も感じさせ得ないものであろう事は、近年の事例でも明らかでしょう。
そこで、論語の『小人』を道具(ツール)として、適用するのです。 『絶対悪』等では全く動じない集団心理や論理には、必ず別の脆弱性を不可避的が付き纏うと考えられます。 そこで、東アジア原産の『小人』に登場願うのです。
ついでに申し上げれば、孔子は、孟子の性善説でも、荀子の性悪説でもなく、それらが未分化の段階の、元祖儒学者なのです。