社会学者エーリッヒ・フロムは、著書『正気の社会』で題名を反語的に使用されていたかと思い出します。 すなわち、「これでさえも、正気な社会と言えるのでしょうか」といった具合に、一般社会人が特に意識しない社会の「病理」を適示する内容の著書であったか、と記憶しています。
それに触発された訳では無いでしょうが、ある種の扇動政治家が、あの手この手と、手を変え品を変えて奇策を弄し、危惧すべき結果的に脆弱な世界造りに奔走する事例が、近年とみに増えてきているようです。
時代的に閉塞感のある人々の中には、政治や行政制度の大胆な変革に微かな望みを託する向きもあります。 無過失の無限責任を負わなければならない政治家の、末端に連なる者の一人として、私も内心忸怩たる思いです。
しかし、制度の変革が、多くの弊害や国民の生命・財産を危険に晒すことが、かなり明白な事態は避けなくてはなりません。
このような場合、扇動政治家は、「孺子」の本質を様々な形態で露見させているものです。 それを的確に見抜くのが、人生経験の積み重ねの賜物の一つである、人物鑑定力のようです。 二項対立といったバクチ的な忌まわしい政治手法の事態がどのような過程を経て形成されたのか、今後反省材料として検証すべきでしょう。
危険は、危ういところでひとまず去りました。 潮目が変わるのか、今後も憂慮すべき事態が続くのか、危機が降りかかってくれば、私なりの戦いも覚悟しなければなりません。
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