中国盛唐時代の詩人李白は、詩仙すなわち詩の仙人とよばれてきました。 「天馬空を駆ける」とか「世俗を超越した」といった形容は、この天才肌の詩人を賛美する形容です。 俗世の垢とか、乱世の苦悩などは、詩聖の杜甫に任せておけばそれで十分、と私も心得てきました。
これはドイツ系の作曲家モーツアルトとベートーヴェンの対比にも似ていると、私は高校生の頃から考えて来ました。
モーツアルトは冗談を言いながら名曲を書き、悲しい事情であっても明るい曲を、嬉しい境涯であっても暗い曲を書きました。 正に天才作曲家の真骨頂でしょう。 苦悩を通して歓喜をとか、ナポレオンに託して失望し、後に普遍性の意義を見出す英雄像とかは、楽聖のベートーヴェンに任せておけばそれで十分、と私も心得てきました。
ところが、25日(土)付の『しんぶん赤旗』のコラム『漢詩に見る戦争』で、李白の詩『城南の戦う』を知り、李白に対する見方が一変しました。
李白は酒好きで、「李白一斗詩百篇」と言われ、酒を飲んで詩の構成が浮かぶ「酒仙」(酒の仙人)とも言われて来ましたが、少なくとも「酒仙」のみの称号だけは、今後は取下げます。
『城南に戦う』は、インターネットでも多くの注釈があり、李白の「社会派」の側面を明示しています。 杜甫だけではなく李白までもが、当時の唐の玄宗皇帝の領土膨張政策(長征)を、間接的に批判しているのです。
特に、「敗馬號鳴向天悲」=「敗馬 號鳴して 天に向ひて悲し」は、李白の才能が、花鳥風月の趣味の世界の枠から脱して、大きく社会性に広がっています。
更に、「烏鳶啄人腸」「銜飛上挂枯樹枝」、=「烏鳶 人の腸を啄み」「銜へ飛び上がりて 枯樹の枝に挂く」に至っては、戦争の悲惨さを訴え、醜悪な現実描写を遠慮なく駆使しています。
結びは、「乃知兵者是凶器」=「乃ち知る 兵は是れ凶器にして」と、明らかに反戦の意思を突き出しています。
しかし、時代の制約でしょうか、時の為政者(玄宗皇帝)をはばかって、「聖人不得己而用之」=「聖人は 己むを得ずして 之れを用ふ」としています。
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