江戸時代の伊豆下田を舞台にした、股旅物の映画『雪の渡り鳥』の中で駄菓子屋五兵衛の科白で、「奉行所も浦賀に移って取締が緩んだ」、といった趣旨の内容がありました。
◎◎一家とか、△△の親分が横行するのは、幕府や諸藩の治安の弱体化によるものであり、江戸時代も幕末と相場が決まっています。
下田の治安の拠点施設である『下田奉行』は、江戸幕府開闢以来、3回の設置と廃止を繰り返しているようです。 ①1616~1721、②1842~44、③1854~59 には設置されていましたが、断続的ではあります。
元に戻って、映画の場面では、
大鍋の島太郎: お上が、見てて下さらあ
駄菓子屋五兵衛: そのお上は、浦賀へ引っ越しちまって、ここ(下田)までは目が届かねえと来てらあ
五兵衛の科白「浦賀へ引っ越しちまって」は、弘化元年(1844年)の頃のようです。 下田は天領である事には変わりません。 では奉行所不在の期間はどういった統治機構かと問えば、代官所のようです。 映画の最後に、捕り方がやって来て、同心が叫びます。
同心: (下田)代官支配の者だ。 開けろ。
幕末の「黒船」来航(来寇)後の、アメリカの下田領事ハリスの着任以降ならば、このような任侠戯曲の成立の余地は無いことを、原作者の長谷川伸も承知していた、と考えられます。
下田奉行は、①国内の海運流通政策、②関所による幕府体制維持政策、③国防(海防)政策と、密接にかかわるようです。
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