戦国時代の日本の歴史を細部に検索しますと、その細部にこそ、時代の趨勢や本質的なものが顕在化している事も、多くあるようです。
史上有名な『本能寺の変』(1582年)より13年前、将軍足利義輝が暗殺された『永禄の変』(1565年)の4年後、すなわち1569年に起こった、ある暗殺未遂事件が、前後の二つの事変の中間的な出来毎の様に思われます。それがここで取上げる『本圀寺の変』で、将軍足利義昭が命拾いしました。
『永禄の変』の下手人は、三好三人衆や松永久秀で、暗殺は遂行されます。
それに味を占めたものか、三好三人衆によって、またまた将軍暗殺が企てられます。 しかし、この時は織田信長の武将たちの防御が功を奏して、義昭は難を逃れます。 義昭を防御した武将の一人が、明智光秀であることには注目すべきでしょう。
光秀は、13年後の『本能寺の変で』織田信長を倒します。
したがって、『本圀寺の変』は、4年前に将軍を暗殺した者達が、今度は失敗し、ここで防御に成功した者が、13年後に暗殺に成功するといった、中間的な逆説的な要素を孕んでいます。
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