今から2,500年程前の中国の思想家孔子の言行録『論語』の中に、「小人閑居して不善を為す 至らざる所無し」があります。
この閑居を、「人目に付かない所では」とする解釈もありますが、私はオーソドックスに「暇でいると」に解釈します。 更に、私自身従来はあまり気付かなかった事ですが、後段の「至らざる所無し」の含蓄のある意味合いに、むしろ注目するようになって来ました。
政治活動で、このような事例に度々遭遇するからです。 勿論、遭遇したくは無いのですが。
例えば、政治に携わる同僚を出し抜こうとして、ある種のクーデターあるは出し抜きを起こし、その同僚が予め予期して手を打って置いたため、見事にそのクーデター的なるものに失敗したとします。
その様な事態を迎えたとすれば、自身の浅薄さを嘆き、自己反省をすればそれで良いものです。よくある事です。
ところが、閑居の逼塞状態に置かれると、ますます「不善」に走り、止まるところを知らない始末となるケースが往往にあるようです。 これが、更にエスカレートする事こそが問題なって来るのです。
非道ともいえるほど、法や規則を曲解した尤もらしい提言はもとより、ラベルやレッテルの張り替え、自己都合で他の同僚まで巻き添えにした、あるいはそもそも同僚への圧迫を目的とした、ルール変更が臆面もなく続きます。 この恥知らずぶりが、厳しいようですが「小人」の「小人」たる所以なのです。
そのたびに、自己矛盾が露呈するだけでなく、せっかく身に付けた知恵や経験を昇華した、「知見」すらも、マイナスに作用し続けます。 残念な事ですので、その誤りを正すべく促すのが、「同僚」の務めという事でしょうか。
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