朝日新聞に復古版として「連載」されている、夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』は、本日第108回です。 副主人公のく苦沙弥先生以下の登場人物達の句会で「大和魂」が、揶揄の対象として、様々に扱われていました。
当時の日本は日露戦争の勝利で、「精神主義的な言葉に熱狂する日本人を揶揄している」と、欄外の注釈に的確に記述されていました。
私は、これは漱石としての、旧幕臣、直参・旗本ひいては江戸っ子の、心意気を示しているのではないかとも考えました。
「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちるとも 止め置かまし 大和魂」は、討幕派の長州のオピニオンリーダー吉田松陰の辞世の句です。 これは、国学的・国粋的である、と同時に明治の藩閥政府のスローガンですらあったのでは無いか、と考えます。
そもそも、この短歌では、「大和魂」を高尚な存在とするならば、「武蔵の野辺」は修辞上反語とならざるを得ません。 当然、「高尚」の反対概念として、「むさ苦しい」下卑た存在として扱わなくては、この「辞世の句」は均衡が取れません。
漱石としては、ロンドン留学で、世界の体制の中央に君臨する大国で最先進国、英国の「優れた」文化に触れて、カルチャー・ショックを得ている筈です。島国日本に残してきた連中の『夜郎自大』ぶりを、まず痛感して、『大和魂』を相対的に受け止めているでしょう。 それだけではなく、存外「徳川瓦解」の張本人である薩長への反発も秘められているかも知れません。
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