政党機関紙の憲法への論評は、十年一日の如しの感があります。 それはそれで良いのです、党是は金科玉条として守るべきでしょう。
かつての日本社会党のように党是を変更してしまうと(客観的言えば、ないがしろにしてしまうと)、政党は理念を自ら喪失し、支持基盤が自己崩壊し、急速に劣化がは始まります。 政党も生き物です、国民的支持といった、根からの養分を常に吸収し続けての存在なのです。
5月3日付の朝日新聞に掲載された、「法哲学の大家」長尾龍一氏の論述は、上から目線の俯瞰的憲法論となっていますが、私の長年の疑問に充分答える内容でした。
日本国民のおおよそ中央に位置する意識を、軍国主義下に生きて日本国憲法に「救いと光明を見ました」と把握します。 また、意識を「通有性」といった道具で顕在化させ、「被圧制者としての解放感を持った」として、イデオロギーの価値判断以前の問題として、「護憲の意識」を位置づけます。
一方で、「狭義」の護憲派を「戦中への怨念が情念的源泉」、批判的に喝破しています。
『押し付け憲法論』については、占領下で制定され、経過に問題があったとしても、「基本線は保守本流に受け入れられ」、「国民が行為によって追認した」として一蹴しています。
また、「解釈憲法の限界などはとっくの昔に超えている」とは、法解釈学の不毛な論争を横に置いた明快さで、目から鱗の落ちる思いです。
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