日本史の『応仁の乱』(1467年~1477年)辺りから、16世紀の中頃までの「足利幕府衰亡史」を、教科書やウィキペディアで学習しました。
足利幕府の要職の三管領を世襲で務める、畠山氏と斯波氏のそえぞれの一族内部での対立の構図を今度こそはしっかりと把握しなければ、といった義務感もありました。 畠山義就・畠山政長と斯波議廉・斯波義敏の名前も頭に整理しました。
この度私が興味を持ったのは、『応仁の乱』終了後も将軍家が2つに割れて、それぞれに守護大名が付いて権力闘争を続けており、概ね『応仁の乱』の対立関係を、後々まで残している事でした。
また、関東に覇を唱えた北条氏五代の創設の立役者、北条早雲(伊勢宗瑞)が1456年生まれである事が定説化されている事。 今川家や堀越公方の内紛に乗じてではなくて、足利幕府からミッションを帯びて、今川家の介入し、堀越公方の茶々丸を滅ぼしたといった、あまりロマンチックで無い史実です。
細川勝元から三好長慶へ下剋上の推移も、流浪する将軍候補が絡んでいるといった事実も把握し、従来の学習の盲点も補うことが出来、頭がすっきりしました。
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